2019/07/17 ボルタンスキー展 1
六本木、国立新美術館でのボルタンスキー展へ行った。大事な記憶として留めておきたいので、きちんと文章にしておく。
最近再会した人で、ものの捉え方がおもしろそうだなあとおもうひとがいたので、誘ってみたところ快諾してくれて、一緒に見に行けることになった。
待ち合わせで手こずったけど、これがわりと楽しくて、なんとか落ち合うことができたので会場へ。
チケットを買って展示に入るときに展示解説のパンフレットがあって、それを参考にしながら進んで行く。
ボルタンスキーのことは、この展示開催にあたって知ったに過ぎなくて、作風などもほとんど知らなかった。
作品は、想像していたよりも重みがあって、人の生きている時間と、その数の膨大さと、そのそれぞれのストーリーを感じさせられた。
特に衣類(古着)を使った展示と顔写真を使ったものは、その1つ1つの重みを意識しないわけにはいかなくて、またそれが死者のものであったりするから更に重たく感じて、時々くるしくなった。
あと、音はすごく自分の中に浸透しやすいのだというのも実感した。視覚だと、なぜかすごく考えてしまう。分析に走ってしまうし、どういうわけか頭で理解しようとしてしまう。
耳からだとすごく感覚的にそのものを受け入れることができるみたいで、考えるより先に印象がこころに浮かんでくる感じ。
なにかを見るときに、できれば考えずに感じていたい。考えてしまっては面白くないし、ものに触れたときの第一印象みたいなものってすごく大事だとおもっている。
思い出とかもそうだけど、記憶とか印象って塗替えの効くものだから、はじめに明確に浮かんできたなにかをものすごく大事に扱いたいとおもう。
あとこれは余談に過ぎないけど、冒頭に展示されていた、咳をする男。映画・ジョニーは戦争に行った、を連想した。こわい。
つづく
2019/01/16 〜 17 風邪により、
友達が風邪をひいたと言って連絡をくれた。
心配でならなくて、仕事終わりにとりあえず様々買い込んで家を訪れる。
ひとりで寝ていて、きついながらにゼリーやらポカリやらを買い込んでいた。
一人暮らしで病気をした時の心細さはよくわかる。
しんどくて買い物もままならないし、食べるものも、栄養のあるようなものが食べたくても作ってくれる人がいない。
作る気力ももちろんないから、既製品を細々口にするしかないのだ。
しんどくて仕方のない時に、こころまでさみしいのはいやだな。
だから出来ることがあるなら、したいと思った。
日付を越える頃に家について、眠っているようだったのでまずはりんごやらイチゴやらをすぐ食べられるようにする。
そのあとにスープをつくる。
しょうが にんにく ねぎ れんこん たまねぎ にんじん ほうれん草 えのき セロリ 鶏肉
これは我ながらよい出来だった。
風邪ひいてるときは、なんか味覚が敏感になる気がして、食材の風味とか味付けの感じがめちゃくちゃ感じられるから、あまりごてごてした印象にしたくなかったのだけど、
コンソメ 塩こしょう ブイヨン しょうゆ 味噌
を各々少しずつ入れた。薄味のつもりだったけど、どうなんだろう。こうやって見ると結構入ってるな。
でも深みがあっておいしくできた。セロリを入れるのにハマっている。
すこし友人と話して、別の部屋で寝る。
わたしも治りかけの鼻風邪があってぐずぐず言っていたので、友達は帰った方がいいんじゃないのと行ってくれたけど、電車はすでにないのでむしろ泊めてくれと言ってストーブの傍らで寝る。
朝5時に目がさめる。
もう一度寝ようかと思ったけど、なんだかんだすることがある気がして起きる。
お腹がすいた気がしたのでりんごひとかけとスープを食べてみる。一晩明けてなかなかおいしくなっていた。
友人に声をかけたら、まだつらそうだったので冷えピタと氷まくらをすすめる。
冷えピタがそれで最後だったので、コンビニに買いに出る。
帰って来て、かたづけなどしたら、洗濯物が気になったので友人に声をかけたら、何か食べたいというのでスープと果物を出した。
どうだったかなー、一応全部食べてくれたけど。身体に染みていたらいいなとおもう。
しかし、しんどそう。
ひとまず洗濯をしていいか尋ねて、回す。
枕カバーやらまくらも一緒に洗った。
風邪で汗かいているからね、よかった。
6:30。
眠くなって来たので、横になったら、1時間くらい寝ていた。
7:20。
あわてて奥の部屋に干す。
寝床の周りを簡単に片付けて、食器を洗って仕事に出る。
7:45。
帰り際、また何かあったら言ってねと言ってきた。
ありがとう、と ひとことだけ言っていたな。その一言でぜーんぶよかったってなるね、
かえりみちに考えたけど、こういうときに側に人がいてもいなくても、生きてはいける。
それでも誰かがいて、何かをしてくれたり作ってくれたりするのがあることで、なんだか治りそうな気もしてくるのも事実だなと思った。
早く治れー。長くなったが終わり。
2019/01/13
のどがいたい。
コンビニの揚げ出し豆腐を買った。
わたしはじぶんの生きている根底の部分を、どこか諦めているんだろうなと最近おもう。
死にものぐるいでがんばれないなと自覚した時に、どうしてだろうと考えた。
ひとはいつかしぬ。わたしもいつか死ぬ。
わたしは世界にめちゃくちゃたくさんある点の小さな小さなひとつでしかなくて、
それが消えたところでなんにもならないし、生きていたところでべつになんにもならない。
なんにもならないと わかっていながらいきている感覚というのかな。
それなのに、しにたいともおもわない。
この世界を大きくみたときに、自分の存在がなんの影響ももたらさないのだと自覚したところで、死にたいとも思わないし、死ぬ理由もないし、なんか生きているから生きてみている、みたいな。だいぶ端的だけど。
そのなかでおもしろいこともあるし、そうじゃないこともあって。でもそれも一過性のものでしかない。人生においても、この地球が回っている歴史においても。
こうして文字に起こしてみるとめちゃくちゃ冷めているような感じがするな。
こんな捉え方してるなら、
仕事なんてかなぐり捨ててやりたいことやって、自由奔放に生きればいいのにね。
文句いいながら新卒からずっと同じ会社にいるし、引っ越したいとかいいながらずっと同じ家にすんでいるし、結局自分はちっぽけな人生のちっぽけな不安に縛られている。
やわらかくいきていたいのにな。
それで、死んでいくときに人生こんなもんだったなーって思って70歳くらいでのびのびしにたい。
わけわかんないな。おやすみ。
2019/01/11
久しぶりに営業終わりに後輩とご飯に行った。
近所のラーメン屋さん。
調子に乗って、明日から早朝出勤3連勤なのにハイボールまでキメる。
ここのラーメンは、いつもゆず塩ラーメンをたのんでいたのだけど、後輩に勧められて醤油にしてみたら、しびれるほどうまい。身悶えた。
10時間働き詰めた身体に沁みた。
そのあと後輩と別れてひとりでドンキホーテのコスメやらをみてふわふわしながら帰宅するのはたのしかった。
あああ、あすからまたがんばろう。
友達にも連絡した。
なんなんだろうねえ、まあいいや。
部屋を片付けて寝よう。
ツイッターのフォロワーさんがラーメンのことをラメーンといっていたのがうけた。
明日からもがんばるぞー。
2019/01/10
最近書きたいことがない。
祖父からもらったカメラを使いたい。
あたらしい服が着たい、というか、あたらしいじぶんの実像がほしい、
引っ越してみたいしうみにいきたい。
あたらしいひととの出会いが欲しいし
旅に出たい。わくわくしてたいなー。
すきなひとにあいたい。すきといいたい。
あなたのことが大事だよ、とちゃんと伝えるべきな気がするな。
ちゃんと暮らしていたらそれでいいけど。
むしろそのひとのことはきちんと忘れてしまうべきなのだろうな。
最近ネットでいろんな文章を読んでいる。
それでも集中して長文を読む気力はないから、本当に短いエッセイのようなものを中心に読んでいる。
それが案外たのしい。
じぶんのなかの、言葉にできていなかった感情やおもいでやきらきらしたものが、その中にあったりするから不思議。
そうそう、それ知ってる、その感情、そのきもち。そういうかんじ。
そういうものに出会えた時がとてもうれしい。涙さえしてしまう。
できるだけことばにしよう、ことばにしたいとおもうけどね、なかなかむずかしいのだ。
ちゃんといきていこう。でもね、じぶんの道をちゃんとじぶんできめよう。わたしの人生だもんね、しっかりいきていかねば。
いみわかんない日記になったな。
それでいいや。おやすみ。
2019/01/05
新年。
今年も色々あるんだろうなあ、頑張らないとなあ、
お正月は、地元に帰ってゆったりまったりした。いとこたちとSnowで遊んだり、犬を散歩に連れ出したり、ばあちゃんに抱かれて寝たりした。
友達の家にも行った。ものがなくて広くていい部屋だったな。またいきたい。速攻寝たので申し訳なかったけどとても感謝している。
だいすきなばあちゃん。いつまでもいきていてほしい。
今回の帰省で、祖父のコンパクトカメラを譲り受けた。というか、半ば催促して貰った。
石垣島でインスタントカメラを使ってから、あとは友達から勧められて観た『ラブ&ポップ』という映画に出てくるコンパクトカメラを観てから、
なんともいえないフィルムカメラのあの味と、現像するまで分からないアナログ感にどうも惹かれてしまって、密かにカメラを探していた。
実家で、なんとなく持ちかけてみると、祖母が一台のコンパクトカメラを出してきてくれた。
一昨年末に亡くなった祖父の使っていたコンパクトカメラ。
祖父がそれを使って写真を撮ってくれていたのを覚えている。それが運動会だったか遠足だったか旅行だったか覚えていないけど。確かにあのファインダーを覗いている祖父の姿は覚えている。
とても懐かしい気持ちになったし、祖母が譲ってくれるというので、形見として自分の身近に置いておけること、引き継いで使わせてもらえることがとても嬉しかった。
こっちに戻ってきて、ネットでフィルムと電池を注文した。待ちきれない。今一番楽しみなことだな。
どんな風景を映してくれるだろう。わくわくする。いろんなところに持っていきたいな、
今年の目標はまた改めて書こうかな、
とか言ってまともに描いたことあるかな、
まあいいや。そういうのたぶんめんどくさいんだろうな、本質的なところで。嫌ってるんだろうな。
どうでもいいことだけど、今朝ともだちと話していて、
仮定や想定の中でしか話ができないようなことに対して議論することがあまり性に合わないというか、好きではないことがわかった。
たとえば誰かと誰かの間で起こったことについて、直接的に関係のない自分と他者で議論するとか。予想の範疇を超えないことについて議論するのはすきじゃないみたい。不毛だもんな。
眠いので終わる。