日々の記録

毎日書く日記。

2019/01/05

新年。

今年も色々あるんだろうなあ、頑張らないとなあ、


お正月は、地元に帰ってゆったりまったりした。いとこたちとSnowで遊んだり、犬を散歩に連れ出したり、ばあちゃんに抱かれて寝たりした。

友達の家にも行った。ものがなくて広くていい部屋だったな。またいきたい。速攻寝たので申し訳なかったけどとても感謝している。


だいすきなばあちゃん。いつまでもいきていてほしい。


今回の帰省で、祖父のコンパクトカメラを譲り受けた。というか、半ば催促して貰った。


石垣島インスタントカメラを使ってから、あとは友達から勧められて観た『ラブ&ポップ』という映画に出てくるコンパクトカメラを観てから、


なんともいえないフィルムカメラのあの味と、現像するまで分からないアナログ感にどうも惹かれてしまって、密かにカメラを探していた。


実家で、なんとなく持ちかけてみると、祖母が一台のコンパクトカメラを出してきてくれた。


一昨年末に亡くなった祖父の使っていたコンパクトカメラ。

祖父がそれを使って写真を撮ってくれていたのを覚えている。それが運動会だったか遠足だったか旅行だったか覚えていないけど。確かにあのファインダーを覗いている祖父の姿は覚えている。


とても懐かしい気持ちになったし、祖母が譲ってくれるというので、形見として自分の身近に置いておけること、引き継いで使わせてもらえることがとても嬉しかった。


こっちに戻ってきて、ネットでフィルムと電池を注文した。待ちきれない。今一番楽しみなことだな。



どんな風景を映してくれるだろう。わくわくする。いろんなところに持っていきたいな、

今年の目標はまた改めて書こうかな、
とか言ってまともに描いたことあるかな、


まあいいや。そういうのたぶんめんどくさいんだろうな、本質的なところで。嫌ってるんだろうな。




どうでもいいことだけど、今朝ともだちと話していて、

仮定や想定の中でしか話ができないようなことに対して議論することがあまり性に合わないというか、好きではないことがわかった。


たとえば誰かと誰かの間で起こったことについて、直接的に関係のない自分と他者で議論するとか。予想の範疇を超えないことについて議論するのはすきじゃないみたい。不毛だもんな。



眠いので終わる。

2018/12/31 ことし総括

今年も終わろうとしている。

ここらで今年を振り返るべきなのだろうけど、打ちのめされそうなので、ひとことでまとめさせてもらうと、

とにかくしんどい1年だった。



仕事も、それ以外のことも、報われるという表現があっているのかわからないけど、大きく自分で納得のいくことってなかった。


その時やるべきことをこなすことで精一杯だった。必死だった。どうしてだろう。どうしていまになってこんなに足掻いているんだろう。




仕事まだまだだなあ、店の方針と自分がやりたいこと、それを照らし合わせながらちゃんと向き合っていく。



ひととの関係は、全体のテンションがずいぶんローになってきた感覚がある。

ずいぶんと落ち込む出来事が年初めくらいに起こってから、どこか冷めた感覚というのが自分の中に根付いた。

じぶんのことを本当に好きなひとなんていないとおもうようになったし、

じぶんの中途半端な言動がじぶんを苦しめた。

芯がなくなったような感覚。

しっかりと地に足をつけて生きていきたいのにね、




それでも今年は旅をした。

京都に石垣島。とてもいい時間だった。石垣は必ずまたいく。来年はポーランドに行きたいな、どうだろう。



映画もたくさん観たいし、自分で何かを創りたいとおもう。

仕事の作品でもいいし、遊びでもいいから映像とか。きっと楽しいだろうなとおもう。



生活面でもとても変わったとおもう。
これは確実に良くなったな。

家事がすこし楽しめるようになったし、自分で食事を作ることが増えた。自分で作るもの、手をかけて作ったものの栄養面や安全性が感覚的にわかってきた。

調子がいいし、期待していなかったけど身体もすっきりしたり

来年はあかるいきもちで生きていきたいな。


でもこうやって書いていたら、いいこともたくさんあったことがわかった。

よかった。

また来年。関わってくれたすべての人にありがとうと言いたい。

2018/12/27

誰かの悲しみや憂鬱を想像してみても、その実像に触れることはできない。わたしがかんがえるものは想像にすぎない。


つらかっただろうな、哀しかっただろうなとおもうけれども、きっとその人が感じた憂鬱はそれ以上に大きく、重たくのしかかるものだろう。



偽りのような言葉に聞こえるかも知れないけど、肩代わりしたいとおもう。一回だけでも、その苦しみを教えてほしい。その哀しみについて知りたいし触れたい。

気の利いた言葉をかけられるわけではないだろうけど、多分頭を抱えたくなるような、大きな哀しみなのだろうけど、それを知らないことが、わたしは悲しい。共感できないことが、ありきたりな励まししかできないことが悲しい。


だから、知っていたいとおもう。


そういう哀しみを抱えたひとに、わたしができることはなんだろう、


気休めにしかならなくても、こころが軽くなるならそれでいい。

少しでもこころをすり減らすことが少なくなったら、そうおもうのだけど。できることは少ない。

ラブ&ポップ

ラブ&ポップという映画を観た。

エヴァンゲリオン庵野監督が実写を初めて撮った作品だそう。

フィルマークス
ラブ&ポップ - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

以下感想。



とにかくカメラワークがおもしろい。ハンディで撮ったとか聞いたような。

そんなとこから撮っちゃうんですかっていう、斬新な視点から切り取っていたりして、へええっておもう。


ストーリーは、指輪が欲しい女子高生が援助交際でお金を稼ごうとする話。

めちゃめちゃ割愛しているけど。


援助交際で出会ったひとの1人に、チックの男がいて(ツバを吐く仕草という何とも肯定しがたい行為を不制御な症状に持つ)、レンタルビデオ屋に恋人を装ってついてきて欲しいという。


そこの出会ってから別れるまでの一連がなんとも気持ち悪くて、でもおもしろい。なんかああいう人間ってものすごく知りたくなってしまうんだよな。


少し心を通わせる瞬間があって、そういう一瞬が切り取られていることが嬉しかったのかもしれない。



仲間由紀恵がものすごく若くしてでているんだけど、めちゃくちゃ美しい。

不思議とやな人間が出てこないのもいい映画だったなと思える理由かもしれない。

そうして私達はプールに金魚を

そうして私達はプールに金魚を

という映画を観た。



去年こんなの話題になった?

好みがすきな映画口コミサイトのフォローしているひとがいて、なかなか高評価だったのできになって。


ああいうポップでテンポよくて皮肉なやつ、結局ものすごくすきなんだなあとおもう。


邦画は青春というテーマもとてもすきだな。


起き上がりたくない。ぜんぶ壊れてしまえばいい

2018/12/22

とても感傷的な日記を書いていたな。


自分の負の感情も認めていきたい。

代わりに自分の保っていたいもの、失わずにいたいものもはっきりと、胸に携えておくべきだと思う。そうでないと、自分が崩れてしまう。


じぶんを認める、じぶんを保つということが今回は少ししんどい。いつでもしんどいものだけど。




ここ1年でいちばん部屋が荒れているし、洗濯は追いついていないし、食事も買ったもので済ませている。


朝も起きれなくなって、今朝なんて家を出なければいけない時間の25分前に起きて、シャワーを浴びた。


それでも身体を洗うという行為の端々を省略したくなくて、時間がないのにすべての工程を踏んだし、(これまでは省略してきたこともある)あがってからの手入れもいつも通り入念にやった。

それで自分のいま乱れているものの軌道を、少なからずただせる気がした。



きょう、新しい詩に出会った。

赤いわらぞうり — Crossroad of word

高橋忠治というひとのこと、全く知らなかったけど、この 赤いわらぞうり という祖母をうたった詩がものすごく響いた。


祖母とぼくのわらぞうりを編む様が目に浮かぶし、表現がおもしろい。



雪のもかもか降るなかを、

しなしなとした藁ぞうりの、

ほかほかと、


じんとして、こころの中で泣いた。


声に出して読んでみたい。
泣いてしまうかもしれない。



こころの解き放たれる瞬間が必要だなとおもう。

立ち向かうこと。

このあいだ、職場のトップと話をした。


自分が仕事において培わなければいけない部分について触れられた。



そのひとは、

いまのままではセンスが足りない。そのことに関してこれまでもやってこなかったわけで、それではお前の6年はなんだったのか、この6年間、無駄じゃない?そう言った。


わたしは認めたくなかった。彼はたぶん、わたしに火をつけるためにそれを言ったのだと思うけど、それでも認めたくなかった。


その分野に関して、わたしが行動してこなかった自覚はある。直面し難かったし、それよりも技術を、と思っていたので、自分の中では後回しになっている事柄だった。



自分がこの職場で得て来たものは計り知れない。

自分のためにあらゆるレッスンを受けたし、堪え難いダメ出しにも直面したし、何度だって泣いて、立ち向かって、その壁を超えてきた。

そのことは自分の中で、揺るがない事実としてあるのだ。だから今の自分があって、今の仕事ができている。

だからこそ、それを否定されたくなかった。



『6年間が無駄』という一言がわたしを刺して、刃がぐっさりと深く留まり、抜けなかった。

わたしの6年はなんだったんだろう?
今までの堪え難い苦難はなんだったんだろう?
今のわたしはなんなんだろう?
いま、わたしの仕事で喜んでくれているお客さんはなんなんだろう?

すべてが自分の中でガラガラと崩れていく。


誰かに話したいけど、できなかった。誰も分かるわけないと思った。

この、すべてをこなしてきた末の、やるせない、行き場のない虚しさを、誰もわかってはくれないとおもった。



きょう、帰りにふと、ディレクターの先輩が声をかけてくれた。唯一、この人になら打ち明けられると思っていたひとだ。

いつも忙しそうなので、なかなか持ちかけることができなかったのだけど、ひとこと話し出したら堰を切ったように言葉が出てきて、おいおい泣きながら、すべてを打ち明けてしまった。


詳しいことは割愛するけれど、先輩はすべてを受け止めて、否定せず、聴いてくれた。ただそれだけでよかった。


いまを越えなければいけないのは自分でもわかっている。ただ、この感情の行き場がなかったのだ。



先輩のような存在がいるのはとてもありがたいことだと思う。

様子を聞いてくれなかったら、わたしはきっと何も言えず抱え込んだままで、くよくよしているに違いない。

そもそも、かつてその人が通ってきた道だろうから、わたしはその人に話したいと思ったのだと思う。


とにかくわたしがやるべきことは立ち向かうことだ。

もう十分なんじゃないかと、何度思っただろう。それでも納得いかないのだから、仕方がない。

やるしかないのだ。


幸い、わたしの周りには私を支えてくれるひとがいる。だから頑張れると思う。心をすり減らしたっていい。少しくらいならすり減らしてやろう。


いつか絶対に、これを実らせるのだ。